ウィーンで働くために
018/071
ウィーンで働くために
Ermatinger氏が費用を全部持って下さり、私はリッチモンド製菓学校の短期講座に行かせてもらった。Boesch氏は以前、シャッハウゼンのErmatingerから30m程離れたところでコンディトライ(菓子店)をされていた。もともと名門のリッチモンドだがこの頃経営があまりうまくいっていなかった。
そこでパテシィエとしてはもちろん経営手腕にも優れていたBoesch氏をこの学校に招いた。彼は店を売却し校長となり数年間で見事、立て直し以前にもましてリッチモンドを名実共にヨーロッパ有数の製菓学校へと育てた。
そのBoesch氏に短期講座の最終日に私はウィーンで働きたい希望を伝え、働き先を紹介して欲しいと懇願した。下手糞なドイツ語を駆使して身振り手振りでの大奮闘である。Ermatinger氏から私の事について連絡はいっていたが、Boesch氏は冷静に私の話を聞き入っていた。神戸ベイシェラトンでのアシスタントシェフのディプロム。飴細工、砂糖細工の城、等の写真。ヨーロッパではこの後もここぞという時の為に常にPR用の書類を携帯していた。
全てを聴き終わると静かに彼は言った。「ウィーンで働けるよう全力を尽くそう!」
もちろんErmatinger氏の後押しも大きかったのは言うまでもない。すぐにErmatinger氏に連絡がいき、ウィーンのリッチモンドクラブ会員全てに推薦文が送られた。リッチモンドクラブというのは世界中にあるリッチモンド製菓学校卒業生または支援者で作られている会で、もちろん日本にもある。その送られた書類にはBoesch氏の推薦文、私の経歴。そして私も驚いたのが次の一文である。「条件・現在、スイスでの月収25万(日本円に換算)。ウィーンでも同額以上の支払いを希望する。」もちろん私が望んだ文章ではない。望んでいない訳ではないがスイスでのこの賃金自体が労働ビザを取ったが故の高賃金なのだ。安い賃金での外国人労働者の大量流入を防ぐため労働ビザを取ると(国際協定のない外国人)高賃金を払わないといけない仕組みなのである。安月給を覚悟していた私は最初、「こんなにいらない。」と辞退したくらいだ。ここまで気を使ってくれたBoesch氏にいくら感謝してもしきれない。もちろんErmatinger氏にもである。
短期講座から、戻って毎日、Ermatingerで働きながら返信を待った。2週間ほどするとErmatinger氏のもとにウィーンから一枚の封書が届いた。その内容は「是非、当店に来て働いて欲しい。」というものだった。その報告を聞いたときはまるで夢を見ているようでまだ「本当にウィーンで働けるのか?」と半信半疑だった。その返信を下さった主とは、ウィーン郊外の「Baden bei Wien」という町で「Anna Muhle」という菓子店を営むSchneider氏であった。当時、リッチモンドクラブのオーストリア支部長をされていたので、Boesch氏の推薦状を一番に受け取った方と想像された。当時はまだインターネットのHPなど無い時代である。「Anna Muhle」の資料は同封された店の絵葉書一枚である。しかしその絵葉書を一目みただけで期待に胸が膨らんだ。ウィーンの後のフランスを既に視野に入れていた私は「最先端の菓子はフランスで学べばいい。ウィーンで働くなら伝統的なウィーン菓子を学びたい!」と心に決めていた。それにはその絵葉書に描かれた100年を超える伝統とたたずまいは十分に心を時めかせた。
Ermatinger氏の次に、親友のステファンに相談した。彼はじっとその手紙を見て言った。「TOSHI行くべきだ!」

Sponsor