ウィーンへの想い
017/071
ウィーンへの想い
Ermatingerでの仕事も2年目に入ってスタッフとの絆も益々深くなり、海外旅行では決して味わえない経験も沢山できた。その一つが同僚レグラの結婚式だった。
皆、新郎新婦との繋がりのある服装で出席した。新郎のサッカー仲間はユニホームで、新婦の仕事仲間の僕達は仕事着のTシャツとタブリエ(エプロン)という訳だ。日本人らしく念の為、Tシャツの上にシャツとネクタイをしていった私は浮いてしまっていたが、「まあそれもいいか。」とあえてそのまま記念撮影。
そしていつも親切にドイツ語を教えてくれたシーナの卒業試験も忘れられない。スイスでは店で菓子職人として実際に働きながら製菓学校に通う。その卒業試験のレベルの高さには驚いた。まず丸二日間に亘って試験官が厨房に入っての試験となる。試験官とは製菓学校の先生ではなく、他の菓子店のシェフである。他店のシェフが丸二日間も厨房に入り浸る為、試験の前日には私達は壁などに貼ってあるレシピーは全て片付けた。そして試験は始まった。その内容はパイにショコラに生菓子、細工物など、凄い量である。特に私を驚かせたのは、全部手作りなのだ。例えばマジパン。アーモンドをローストしてローラーで挽いて粉糖と合わせてと、一から作っていく。フォンダンも、もちろん手で練ってつくる。日本でマジパンやフォンダンを一から作れるパティシエが何人いるだろうか?二日目の夜、作業台一杯に広げられた作品を試験官が細かくチェックしていく。もちろん作業中もである。そしてシーナは見事、パスした。総評が終わると、表で心配そうに待機していた家族や友人に結果が知らされ、皆、歓喜して厨房になだれ込んできた。お母様はテーブル一杯に並べらえた娘の作品を見て、感激のあまり泣いてしまわれた。私もシーナとおめでとうの握手をしたとき思わず目頭が熱くなった。
スイスでの生活は多くの友人達に支えられて、楽しく充実していた。私はひょっとすると安定というものを嫌がるのかも知れない。自分では意識してはいないが・・。「いつかはフランスへ行きたい。しかしドイツ語がようやく少し分かるようになってきた今、もう一ケ所ドイツ語圏で勝負がしたい。」という思いが膨らんできた。その場所とは独自の菓子文化が花開く古都「WIEN」。世界広しといえど都市名で呼ばれる菓子はおそらくWIENだけであろう。「WIEN菓子」である。「PARIS菓子」や「LONDON菓子」「東京菓子」等と呼ばれる事はない。「このままスイスにもっと留まるか。」という思いが無かった訳ではない。しかしWIENへの想いは日増しに募っていった。ある日Ermatinger氏に誘われてメレンゲ発祥の地「MEIRINGEN」へ旅行に行った。シャッハウゼンの菓子店のシェフの慰安旅行に一緒に誘ってくれたのだった。この町で食べたメレンゲのデザートは今でも忘れられない。このシンプルなメレンゲと生クリームのデザートは現在のTOSHIのデザートに大きく影響を与えている。その帰りの車中で私はWIENの件をErmatingr氏に相談した。彼は私の考えに賛同してくれたが困った顔をして暫く考えた後に言った。「スイスのビザはオーストリアでは使えない。また新たに労働ビザを所得してくれる店を紹介できる自信はない。」冷たいように聞こえるが決してそんな事はない。ビザ所得の難しさは重々承知しているし、不法労働で私を何処かに紹介するような無責任な方ではない。そこで彼は一人の紳士を紹介してくれた。世界的に有名な学校、リッチモンド製菓学校校長Boesch氏である。

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