一時帰国
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一時帰国
労働ビザを所得する事が事実上決まった私は夏のバカンスに6年ぶりに一時帰国する事にした。大きな理由の一つは祖母であった。もちろん母にも逢いたかったが明治42年生まれの祖母は既に92歳。労働ビザ所得となれば滞在はさらに長期になるだろう。先の事はわからないので元気なうちに逢っておきたかった。

祖母、母と共に

一時帰国の飛行機の中、今までに味わった事の無い充実感に自然と涙が溢れた。6年前の渡欧の際はもちろんの事、2年後の帰国の際もこの時のような達成感に見舞われた事は無かった。それは既に次のステップに向かって頭が切り替わっていたからである。この時は珍しく素直に一時帰国を「故郷に錦を!」の様な能天気な気分になれた。 今でもはっきりと覚えている。関西空港から京都へ向かう途中、車掌さんが列車の扉を開けて入るなり深々と一礼したのだった。「なんて礼儀正しい国民なんだろう!」新鮮な驚きであった。
京都駅からJR奈良線で宇治に着き公衆電話から母に電話して途中まで迎えに来てもらう事になった。私は母の家を知らなかった。生れ育った十四件長屋の実家は当時流行りの地上げに会い、仲の良かったご近所さん諸共立ち退きになった。実家跡を通ると近々、マンションが建つとかで更地にされ駐車場となっていた。
「6年ぶりに会う母は全く変わっていなかった。」と言いたいところであったがやはり6年の月日は私にもそして母にも流れていた。あんなに仲の良かったご近所さんは皆、散り散りになり、今住むマンションのご近所さんとはほとんど交流はないと寂しそうに母は話した。親兄弟のように過ごした十四件長屋は地上げにあった際、最初は一致団結して闘っていたらしいが地上げ屋の巧みな切り崩し作戦にあって終盤は色々とあったらしい。
父

父親を亡くしていた鎧塚家は地上げに関して兄が全てを仕切った。大変な事が多くあったらしいが兄は詳しい事は一切話さない。今でもそうだが、親兄弟親戚近所間の幸せな事は私も共有するが時折やってくる煩わしい事は全て兄が長男として処理をして私はいつも蚊帳の外でいられる。8年もの海外修行、その後の東京での自由奔放な行動はこの兄がいてこそ出来た事と言える。姉は話には聞いていたが私と同じ年の男性と結婚して、やはり話でしか聞いた事のない娘を一人設けていた。その後会った兄さんはとても優しく真面目で尚且つ頼りがいがあり、姪っ子は可愛くお利口で安心した。姉の結婚式にも帰国しなかった私だが鎧塚家には兄だけでなく末っ子の私にはそういった事を許してもらえる空気があったように思う。私は父が亡くなった時、大阪のホテルで働いていた。たまたま休日で宇治に帰っていた夕方、父は亡くなった。たまたまというよりも末期癌だった父は「家族が全員揃った日に逝ってくれた。」という方が正しいのかも知れない。夜明けまで父に添い寝していた私に兄は「お俊、今日はどないする?」と尋ねた。「大きい宴会入ってるから一番電車で行く。けど早よ帰ってくる。」
「わかった。」兄は当然の如くうなずいた。 兄も母も姉も婆ちゃんも私は仕事に行くものだと思っていたらしく当たり前のように、「今日は遅うならんように帰ってきいや。」とだけ言った。生粋の職人気質だった父はまだ職人として小僧の私に天から「頑張って終わらせて来い!」と肩を押したに違いない。仕事の段取りがつきシェフに父が昨晩亡くなった旨を告げると直ぐ帰れるように取り計らって下さった。昼過ぎに自宅に帰ると兄や十四件長屋の仲間の手によって父のお通夜の準備は出来ていた。

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